ワタクシといたしましては、独尊ではなく、
ホントーは[独存]といたしたいのでありますが・・・
あ | 本日の講座はネエハンを混乱させてしまうであろう、いささかテツガクテキな内容 でありますが、なにとぞ逃げずに |
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ミミノアカカツポジイテヨオクキクンダゾ、バカノクリス、 オツトイイソコナイ、ごケイチョウのほどヨロシクオネガイいたします.。 カシコイクリスオジヨウサマ。 |
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その1 |
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まず外側に目をやってください。リボンの上にお椀を伏せたような突起が並んでい |
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凹だったはずが凸へと大逆転! |
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ヘンヤナア同じ部分なのに。何とも摩訶不思議! キツネニツママレタミタイ。 (エッシャ−の作品にはこういう”視覚の逆転”をテーマにしたものが多い。) |
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▼注意すべきは「二通りの見方が同時にはできない」ということでおます。 凸と凹を同時に認識しようとしても無理デッシャロ。 いくら目を皿にして眺めても、 ある瞬間を限ればどちらか一方の見え方にしかなってくれませんデショ。 表と裏が同時に見えないのと同じように。 追記2009/9 これも上図と同じようなものでござる。 フレッド・アラン・ウルフというアメリカの物理学者の書いた「量子の謎をとく」という ヒジョーにややこしくナンカイな本に載っていた「逆説立方体」という図。 よ〜く眺めてみなはれ。おかしなことに気づきまへんか。 @とAのどちらが前面か分かりまっか? (単に平面に描かれた直線パターンと見ることも勿論可能。) ピンと来んかったら、下にその見え方の違いを 分かり易う塗りつぶしておきましたさかい 比べておくんなさい。これなら分かりまっしゃろ。 どちらも上図を塗りつぶしただけで 元はまったく同じものでございます。 ちょっと(いや大いに)塗り方が下手でござるが 違いは分かるのとちゃいまっしゃろか。 どうです、ゼンゼン違うて見えまっしゃろ やっぱりエッシャーと同じく、同時に2つを見ることは 叶いませんでショ(もちろん上の上の白黒図)。 念を押しときますが、元は全くおんなじ図でっせ。 ここで、 二通りの認識が同時には不可能 |
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ということについては、ヒジョーに大切な認識上の問題を孕んでおると思われますので 以下少々説明させていただきまする。 裏と表が瞬時に見えるなんて芸当は、カミサマにしかできんことでっしゃろ。それと |
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と気づいたことでござるが、 本稿[天上天下唯我独尊]は、わけの分かんない |
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の考え方に共通するところが大いにあるのではないか、というより、視点の置き方とい う意味ではマッタク同一とさえいえるのではないかと思えてまいったのでございます。 これまではオソレオオクモ、あいんしゅたいんに組しておりましたが、我が |
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{天上天下唯我独尊} | ||
に書いている内容は、ニールスボーアやハイゼンベルクの考え方にソックり瓜二つ ではないか,と思えてきたのでござる。つまり、突如として |
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視覚の逆転 | ||
が起こったのであります。 もしかしたら、「神はサイコロを振り給わぬ」と言った、アインシュタインの決定論 (もしくは連続主義) と、「物事は偶然にしか生起しない」という非決定論(もしく は非連続主義。ニールス・ボーアが代表)という相反する考え方が、両方とも正鵠を射 ているのかも知れまへんなあ。(ここで上の逆説的立方体を想起してくださいマセ。) |
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同じく量子力学の大御所シュレディンガーのこの言葉も 天上天下唯我独尊と全く同義だと思いまする。 ついでながら言っておきますが ある時シュレディンガーはボーアにこう言ったそうです。 (F・A・ウルフの著作より) こういう呪われた量子飛躍 (つまり一個のものが、同時に違った箇所に複数存在するという説) に固執しなければならないなら、 私はこのことに巻き込まれたことを残念に思う。 そこでボーアが答えて曰く、 しかし私どもは、あなたに感謝しています。 あなたの仕事がこの理論を進めるために 大いに役立ったのですから。 すると、信じがたいことでござるが、 シュレディンガーは、量子力学の創設者の一人でありながら、 決定論、あるいは連続主義者なのかな? まあそんなことは、ドーデモよいかも知れませぬがね。 以上、追記終り その2 |
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岩鼻や ここにもひとり 月の客 |
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まさにその情景が鮮やかに浮かんでくる名句。まるで額縁にはめ込まれた高級絵画 を観る思いです。(拙者にはなぜか昔懐かしい総天然色映画の一場面のようにも思え まんにゃ。) 名月を独り楽しむため山深く分け入った風流人が目指す岩鼻を仰げば、そこには既 に先客が座を占めていた。(上には上がいるものだというニュアンスも伝わってきま っしゃろ。) 実体験かどうかはともかく、去来はまさにそういう意で句を詠んだのであります。 |
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ところが何と! |
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不可解にも師匠の芭蕉の解釈は全く異なっておったのでゴザイマス。 |
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ここにもひとりの ひとり とは誰のことか? |
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(激賞してもらえるとばかり思っていた)会心作に対する芭蕉のこんな問いに、去 来は大いにメンクラッタに違いありません。(恐らく怪訝な表情をして、また当然な がら)先客のことだと答えると、芭蕉いわく |
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それは惜しい。月の客が去来自身とすれば、 この句は文句なしの秀作ナノダガ・・・ |
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つまり、月の客を去来が他所から眺めているのではなく、 |
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岩鼻に座っているのは去来自身 | ||
とすべきというわけでオマス。 |
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さすが俳聖芭蕉。この指摘は凄い。「アッ なるほど!」と思わず唸らずにはオラレ マヘン。文字通り「目のつけどころ」が我ら凡百とは次元が違います。 |
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ネエハンヨ。想像してみてオクレヤス、自分が岩鼻に座ったところを。 どうです、これまでの絵画的情景はかき消え、 突如として眼前に底知れぬ深い空間が出現 |
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客観から主観への
エッシャーの逆転、量子力学的世界観、 去来の句における逆転、といっこうに本題と関 「ドウシテナノヨ?」 |
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これはバイ菌から植物動物に至るまで、およそ命あるもの全てに共通する基本的特性 でオマス。外界の情報を正確に把握し対応できなければ命をマットウすることなど、そ もそも不可能なのだから当然といえば当然でアリマショウ。「目」はその象徴。 つまり「外界」「他者」というものがまず存在し、「自己」は二次的な存在と表現し てもよいかもしれません。つまり他者に当たってハネカエッタ反射波によってしか自己 を存在させられない。行為できない。いま私メのしていることも然り。ネエハンがいな かったらこんな文を書いているワケオマヘンモンネ。 しかしですよオネエサマ、しかしここでもし |
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外の世界があるから自分が在る | ||
のではなく 自分が在るから外の世界がある と考えてみればどうでゴザイマショウヤ。 |
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去来の句でいえば芭蕉の視点に立つのです。岩鼻に座しているのは”他者”でなく ”自分”とみるのでゴザル。すると |
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世にも恐るべき超大変化 | ||
去来やエッシャ−の逆転などそれこそ蟻さんの逆立ちくらいにしかみえない |
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が起こるのでゴザイマス。 | ||
以下は、今よりハルカニズゥ〜〜〜〜ット多感で賢かった若い頃(ハタチ頃)書い た”我”と題した一文であります。 あ 我
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その激しい悪臭の充満する部屋には、雄々しく胸を張った鷹と、まばゆい虹色の羽 それらの叫喚は、一々彼の傷つき易い胸を毒針のように突き刺し抉るのだった。彼 |
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自分にとって! 自分にとって! 自分にとって! 自分にとって! そうだ、宇宙一切はこの自分にとってという一語に還元されるのだ! そうだ、自分は宇宙の主人公! |
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最後にこう叫ぶと、彼はたちまち神々に近い、否神々をも遥か眼下にする[我]の世 大深海の底に閉じ込められていた一つの小さな小さな気泡が、何かの拍子で解き放 |
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そこには一切がなかった。 善も悪も、歓も苦も、賢も愚も、美も醜も。 それは又 一切が在り一切が真実である というのも同じだった。 |
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天上天下唯我独尊 |
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物というものは観測されてハジメテ実在する |
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といえるらしよ。つまり私メが昔体験したように、認識されない物は実在しないんだっ クリスお姉様もこのワタクシボーヤが知るまでは |
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宇宙のどこにも存在しなかった |
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ってこと。だからネーサン、拙者に感謝すべきなんでござるよ。 |
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いま生きていられるのは ボウヤがアタシを知ってくれたからこそなんだわ |
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とね。 |
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以上オワリマス。 |
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ナニッ!タイクツダッタ、オモシロクナカッタ、ウンザリシタダト! ナニヌカシヤガルクリスノクソタレノウタリンドアホメガ! オウフクビンタクラワスゾ。ヤットコデオシリノニクヒキチギッテヤルゾ。 オチチモミモミシテヤルゾッ! |
あ |
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