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死とはナンゾヤ?


天上天下唯我独尊(
)



2大別方


 こんなことが可能かどうか分かりませんが、まず世の中の現象森羅万象悉く
(あるいは宇宙の諸現象一切)を無理矢理にでも2分――2大別してみましょ
ょう。人によって様々な2分法が可能と思われます。

 代表的な2分法といえば、唯物論と唯心論だと思いますが、それ以外にも論
理的な人は無限(ゼロ?)と有限に分けるか知れませんし、信仰豊かな人は神
と人間(創造主と被創造物)とに大別するかも知れません。あるいはもっと身
近に、善と悪や人間と人間以外、生と死(生物と無生物)とに分けて考えるか
も。もしかしたら、もっともっと身近に美と醜、金持ちと貧乏人、賢と愚に分
類してしまう人さえ!

 どのような大別法もそれなりに意味のあることでしょうが、しかし私は昔か

ら考えているのですが、



とに分けるとどうなるか?

ということです。するとこれまで見えていなかったものが見えてくるようにも
思われるのです。それも私の目下の関心事
「死」についての新しい知見が!

この分類法には、実は以前より別に、哲学的深い意味もあるように思われ
天上天下唯我独尊

そのことに関して考えを述べておりますが、
ここでも文体を改変の上そのことを考察してみましょう。






逆転 その1




 上図はエッシャーの「マジック・リボン」と題された版画ですが、先ずはじっくり眺めてく
ださい。なにかおかしなことに気づかれたでしょうか。

 そう、輪の外部ではお椀を伏せたように見える突起が、内部のほうに目をやると、な
んとお椀の底に見えていた窪みがお椀の中の卵のように見えてくるはずです。つまり
凹だったものが、何時の間にやら凸へと大変身をしているでしよう。

 変ですよね。同じものが凸に見えたり凹に見えたり。注意してほしいのは、同時に凸
と凹が認識できない,ということです。瞬間を限ればどちらか一方にしか見えてくれま
せん。表と裏が同時に見られないように。

 もう一つ例をあげましょう。これはアメリカ物理学者、F・A・ウルフの著作「量子の謎を
とく」という、大変興味深い本に載っていた[逆説的立方体]という図です。

   




逆転 その2



 岩鼻や ここにもひとり 月の客 去来

 まさにその情景が鮮やかに浮かんでくる名句。まるで額縁にはめ込まれた高級
絵画を観る思いです。

 名月を独り楽しむため山深く分け入った風流人が目指す岩鼻を仰げば、そこには
既に先客が座を占めていた(上には上がいるものだというニュアンスも伝わってくる。)

 実体験かどうかはともかく去来はまさにそういう意で句をしたためたのであります。
ところが何と! 不可解にも師匠の芭蕉の解釈は全く異なっておったのでありました。

ここにもひとりのひとりとは誰のことか?

 (激賞してもらえるばかり思っていた)会心作に対する芭蕉のこんな問いに、去来は
大いに面食らったに違いありません。(恐らく怪訝な表情をして、また当然ながら)先
客のことだと答えると、芭蕉いわく
それは惜しい、月の客が去来自身とすればこの句は
文句なしの秀作
なのだが・・・

 つまり、月の客を去来が他所から見ているのではなく、岩鼻に座っているのは去来
自身とすべき、というわけであります。

 さすが俳聖芭蕉!この指摘は凄い。「あっ なるほど!」と思わず唸ってしまいます。
文字通り「目のつけどころ」が我ら凡百とは次元が違います。

 ここで想像してみてください。自分が岩鼻に座ったところを。どうです、これまでの絵
画的情景はかき消え、突如として眼前に底知れぬ深い空間が出現しませんか?私に
は「己の観念が空間に溶け込んでしまう」とさえ感じられたのですが・・・。


からへの




 それを思い知らされた去来は、「詩(うた)のこころ詠み人知らずとはよくぞいったも
のよのう。」とつくづく畏れいったということであります。

 この見方の違いは、いわば唯心論と唯物論の違いといえるかもしれません。去来の
見方が唯物論、芭蕉は唯心論であることは勿論です。(はじめに述べた唯心、唯物と
いう分類に違和感を覚えるのは、こういうところからもきています。)




本題


 エッシャーの逆転、去来の句における逆転と述べてきましたが、いっこうに最初のタ
イトル通り、天上天下唯我独尊の話になってくれそうにありません。ところがドッコイ、
大いにすこぶるものすごく関係があるのであります。
 そういう理由は以下の通りです――

 ここで自己と他者(世界一切)との関係を考えてみましょう。意外にも、上と全く同じ
現象が起こるからなのであります。まず私たちが普段「自己と他者」というものをどの
ように位置づけ認識しているでしょう。私たちは通常”客観的主観”の世界に生きてい
る,といえるでしょう。つまり去来が詠んだ句の次元です。イメージしていうなら、常に
心という電波を外界に向けて発射し、その反射波により己の存在位置を確認し、我々
の行動や感情を対応させている。
たかも、超音波の反射波により暗闇を自由に飛
び回るコウモリのように。


 これはバイ菌から植物動物に至るまで、およそ命あるもの総てに共通する基本的
特性であろうかと思います。外界の情報を正確に把握し対応できなければ、命を全う
することなどそもそも不可能なのだから、当然といえば当然でしょう。

 つまり「外界」「他者」というものが先ず存在し、「自己」は二次的な存在と表現して
もよいかと思います。他者に当ってハネカエった反射波によってしか自己を存在させ
られない、行為できないといっても言いすぎではないのではないでしょうか。

 しかしもしここで
外の世界があるから自分が在る
のではなく




と考えてみるとどうなるでしょう。

 去来の句でいえば、芭蕉の視点に立つのです。岩鼻に座しているのは、他者では
なく自分とみるのであります。するとエッシャーや去来の逆転など蟻さんの逆立ちくら
いにしかみえない



が起こるのであります。



 以下は、今よりず〜〜っと多感で賢かった二十歳くらいに書いた、”我”と題した一
文であります。







 その激しい悪臭の充満する部屋には、雄々しく胸を張った鷹と、ま
ばゆい虹色の羽をこれみよがしにひろげた孔雀と、両手で秘部を固く
蔽った裸体の処女とがいた。それは悪魔の巣窟に違いなかった。彼は
その部屋の一つしかない小さな窓から、往来の行人たちを眺めていた

 しかし行人たちの姿が彼の眼に入る度に、それら悪魔の部屋の住人
たちは一斉に奇声を発して騒ぎたてた。鷹は怒号し、孔雀は金切り声
をあげ、処女は慟哭し。・・・・

 それらの叫喚は、一々彼の傷つき易い胸を毒針のように突き刺し抉
るのだった。彼はしかし、悶えながらもなお、それら住人たちをなだ
めるため行人たちを眺め続けならなかった。無益な努力と承知しつつ
も。・・・・

 すると突然それは全く突然だった。暗雲のとぐろ巻く彼の頭の
中に突然こんな思いが石化の如く閃いた。

 あそこに行く彼らは自分が今ここで認めなければ存在しないのと同
じことではないか?――山も川も、鳥も人も、虫一匹に至るまで、自
分がその存在を認めない限り、存在しないも同然ではないか?

 いや、そもそもこの宇宙一切さえも
自己の存在という大前提なくし
ては全くの
”無”なのではないか?




分にとって! 自分にとって! 自分にとって! 自分にとって!



そうだ、宇宙一切はこの自分にとってという一語に還元されるのだ!

そうだ、自分は宇宙の主人公!



なんだ!!


 最後にこう叫ぶと、彼はたちまち神々に近い、否神々をも遙か眼下
にする[我]の世界へ解放された。

 大深海の底に閉じ込められていた一つの小さな小さな気泡が、何か
の拍子で解き放たれ、その体積を何万倍何億倍にも膨張させながら猛
烈な勢いで浮き上がり、遂には大気の中に溶け込んでしまう・・・



 こういう心持のうちに彼の打算心や(僅かな)真実に染められた歓
びや苦しみは、みるみる足もとに沈んでいった。

 彼は、遙か下界に無数の蟻さながらに地にへばりついて這い回る人
間達(その中には、キリストやソクラテスやヴィーナスもいた。が、
釈迦の姿は見えなかった。)を冷ややかに見下ろしながら、綱を切ら

れたアドバルーンのようにみるみる上昇していった。


 暗闇と無色透明が同義だとすれば”我”の世界は将にそうだった。



そこには一切がなかった。


善も悪も、歓も苦も、賢も愚も、美も醜も。

それは又

一切が在り一切が真実である

というのも同じだった。



 彼の精神のそういう悟境にあるとき、彼の肉体は――とり残された
彼の空蝉は、無辺の空間の微々たる一点地球上のそのまた極微な一点
に、神経と本能のみを残した一匹の蛆虫と化して蠢いているばかりだ
った・・・

天上天下唯我独尊(存)




 以上、若かりし日の体験を延べてきましたが、これを唯心論と唯物論
に分けるなら、唯心も極まれリといったことになるのではないかと思いま
す。だからといって唯物論的思考が完全に排除されているかといえば、そ
うとも言い切れません。価値観など認めないのが唯物思想の極限なのです
から。(だから単純に唯心、唯物に分けるのには抵抗があるのです。)

ここでお断りしておきますと、
最初のほうで、”独尊”ではなく”独存”にしたほうが正確だと申しましたが、
この場合”我は宇宙で一番尊い”には関係はなく、
ただ単純に”我は宇宙に唯一存在する”という意味です。

 ところで、量子力学の解釈によれば、物は観測されることによりはじめ
て”有る”といえるらしいです。ネットで読んだことがありますが、シベ
リアのタイガで
誰にも知られることなく一本の巨木が朽ちて倒れたとする
と、それは実際に起こったことといえるだろうか,という疑問が出されて
いました。そんな身近なことだけではありません。何千光年の彼方にある
X星の住人Y氏が死んだとしましょう。確認しようがないのはタイガの巨
木と何等変わりがありません。とすれば、やはり観測されることにより物
ははじめて実在することになる,という量子力学の結論を認めざるを得な
いのではないでしょうか。唯物論の最先端にある量子力学でさえこんな唯
心的ともいえる解釈をするのですから、後は推して知るべしです。

 死についての考えを述べているはずなのに、いっこうにそれが出てきま
せんが、自己と他者の2分方には、生死に関する重大な事実な事実が隠さ
れていると考えるからです。

 他者には死は紛れもなく存在するが、自己には存在しない,と断じても
よいからです。

 では以下にそう断じる理由を述べていくことにしましょう・・・



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