[自分という不思議な存在]
あ |
自分、我、己というのは考えれば考えるほど不可思議な存在だとつくづく思 います。第一、自分の往くところしか行けないのは、万人共通です。どんなに 愛する人でも、まさかトイレまで一緒に入れないでしょうし、まして排泄を代 わってもらうわけにも、代わってあげるわけにもいきません。 こうしてみると、要は、一生を通じて自分の体験しかあり得ないのが分かり ます。厳密に云うなら、己の思うこと以外思えませんし、己の経験したことし か体験できません。他人には、例え一卵性双生児といえども、刹那たりとも己 の体験と重なることは絶対にあり得ません。 このことに関して、こんな面白い話があります。昔中国に香厳(きょうげ ん)という(多分若い)坊さんが、師匠のイザン禅師に、こんなことを云われ たそうです。 |
あ |
お前が未生以前の自分を知っているなら ここに出してみよ。 |
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意地の悪い質問です。誰も生まれる前の自分を憶えているわけがありません から答えようがありません。質問(禅の世界では公案というらしい。)の意味 さえ理解できないので、それを問うと、師は巌として教えようとはしない。 これは人に教えることはできん。自分で悟る以外にない,というばかり。 上に述べたように、自分の体験は、人に代わってもらうわけにはいかない, というわけです。仕方ないので師の許を辞し、独り山に篭りその公案を解こう と修行に励むこと、ナント十八年! ある朝、庭の掃除をしている時、箒で飛ばされた小石が、周り竹の幹に偶然 当ったカチンという音(香厳撃竹)を聞いたとたん、忽然と大悟――つまり、 師の公案の真意に到達したということであります。 |
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この話は、「困ったときは老荘の知恵」という、大変面白い本に紹介されていましたが、 あいにく香厳の具体的悟りの内容については、著者は一言も述べておられませんし、 ネットでも探しましたが、どこを見ても、”我が意を得たり”と思うことは書いてありませんでした。 従って、以下は、あるいは私の勝手な解釈になるかも知れませんが・・・。 |
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ではいったい香厳は何を大悟したというのでしょうか?――私の解釈では、 生死に関して思いもよらない回答を得たのではないか,と思います。つまり、 師の公安では、未生以前となっていましたが、死後も同じことではないかと 考えたというところに悟りが開けたのではないかという気がします。いや、そ う信じます。つまり、生まれる以前が(存在していなかったから)思いだせな いのと同様、死後のことも記憶に残らない,認識不可能,すなわち、未生以前 が存在しないのと全く同様 |
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ということになる,と思います。 |
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香厳の大悟は、そこにこそあったのではないか,と思うのですが、如何なも のでありましょうや。 ここで注意しなければならないのは、我々はどうしても |
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存在しないことが |
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と考えてしまいますが、宇宙まなく探せど無はどこまで行っても”無”以外 の何ものでもありません。無が何処かに”有る”ということは。断じてあり得 ません。つまり、カンタンにいえば”無い”のであります。我々は、どうして も生存本能的(という以外に説明しようがない。)に、死を恐れますが、論理 的につきつめれば、”ない”ことを恐れるわけですから、こんな馬鹿げた話は ない,とも云えます。 まむしの道三こと斉藤道三がこんな辞世を残しているそうです。 |
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捨ててだに この世のほかはなきものを いづくか終(つい)の すみかなりけむ 以下は”魂をゆさぶる辞世の名句”の著者、宣田陽一郎氏の解説どおり。 世を捨てたつもりだが、やはり自分にはこの世しかない。 どこに終の棲家があるのか、どこにもありはしない。 |
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この言葉では説明しづらい――禅で云うところの”不立文字” 香厳の大悟は、そこにこそあったのではないか,と思うのですが、如何なも のでござりましょうや。 |
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未稿 |
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