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死とはナンゾヤ?


はじめに


 ここに一冊禅の初心者向けの本があります。その中から試みにいくつかの難
かしい言葉を拾ってみましょう。――直指人心(じきしにんしん)、只管打座
(しかんたざ)、慧可断臂(えかだんぴ)とか言われても普通の人は、その意
味さえ解りかねるでしょう。これは悟りの境地への導入、ないし悟りの境地そ
のものズバリ表した言葉らしいですが、だからといってひるむことは、全くあ
りません。皆様にもそれを遙かに凌駕する高邁な世界に入られること、請けあ
います。それも絶対確実に! 何も滝に打たれたり座禅したりの厳しい修行を
せずとも。それどころか、お釈迦様の
天上天下唯我独(独尊ではなく
であったならこの場合もっとぴったりだと思いますが。――理由は後述。)の
世界さえをも超えた至高の境地に立たれることさえ!

 しかもこれは頭の優劣とか年齢とか、悪業ばかりなしてきたとか、その逆と
かにも関係ありません。全員一律平等にその世界に入られること、絶対的確信
をもって断言いたします。(私如きがいくら保証したところで、瀕死の虫の声
も及ばないに違いありませんが。―笑)

 これは時空を完全に超越した世界です。つまり一億年も0.0000001
秒も区別がありません(もっと云えば、零と無限)。また、0.000001
ミリも一億光年も同様です(もっと云えば、零と無限)。のみならず、一切の
苦からも解放されます。もう一つ云えば、生死をも乗り超えられます。禅の高
僧を何千人何万人集めてもそれには敵わないでしょう。またこの世界には、宇
宙一切の謎というものが存在しません。物は何故存在するか,だとか、宇宙の
起源だとか・・・。また、もう証明されてしまったそうですが、フェルマーの
定理とかいう、数学者でさえ何世紀も解けなかった難問でさえないのです。そ
れに加えて、「天道是か非か」という司馬遷の投げかけた”永遠の課題”も完
壁に解決されます。

 では、それほど万人が易々と入城可能な悟りの境地とは、いった如何なるも
のなのでありましょうや・・・
???


















 私が早熟だったせいかどうか、10歳を過ぎるか過ぎない頃寝床にもぐり込
んで、よく死について思案し、こんな煩悶をしておったものでありました。

 ――死んだらナンニモもなくなってしまうなんて、そんな馬鹿なことがあっ
てたまるかァ! そんな世にもソラ怖ろしいことがあってなるもんか! 死ぬ
くらいなら、身を切り刻まれようが、目ン玉くり抜かれようが、生きていられ
るなら、どんな苦痛でも甘んじて受けてやる!

 




   とまあ、幼いながらもこんな恐怖に怯えておったものでありました。もっと
もそういう思いは持続はしなかったですがね。蛇足ながら、伝記によれば、お
釈迦さまは幼少の頃よりそんな気分に持続して苛まれ、第一義的にはその恐れ
から逃れんとて、禅定したり苦行したりの挙句、遂には悟りの境地に到達なさ
ったのではなかろか,という気がしています。まあその辺(思いが持続する)
が我等凡夫と違い、偉人の偉人たる所以でありましょうがね。 (こちらに幼少
の折の死の恐怖について延べております。故あってふざけた書き方をしていま
すが。)

 爾来半世紀、今に思えばいろいろ変遷はあったものの、死について考えると
き、昔の思いのほうが断然深かったことは認めざるを得ないでありましょう。
先人の思想哲学、その他諸々の知識が全くなかった往時のほうが。

 さて現在は!――子供の頃には気づきようもなかったことですが、ごく最近
に至って死についての
 
 

をしたのではないかと私なりに思っております。


それは

 




ということであります。


 このことを人様に納得できるよう説明するのは至難の技のように思われます。
ちょうど味を言葉で説明しようとしても100%は伝えきれないように。

 でもだからと云って黙っていては話が前に進みようがありませんので、近年と
みに劣化してしまった脳髄をフル回転させながら、何とかそれに挑戦してみよう
というわけであります。

 以下くどくどと述べることは、何れも”死は存在しない”ということについて
私なりに考え出した結論でありますが、近年若くして亡くなった女性哲学者・池
田昌子
さんなどが出しておられる論拠と重複する部分もあるかもしれません。い
や多分そうでしょう。(女史もまた「死は存在しない」と主張なさっているそう
で、私はその著作を全く読んでおりません。)けれども私如き者の考えではあっ
ても、この文をお読みいただき、少しでも安心立命に近づいていただけるお方が
万が一にも現れるなら、無上の喜びとするものであります。



                

  本論に入る前にお断りしておかねばならないことがあります。死について
 の大発見をしたのがつい最近と言いましたが、理屈の上ではもう何十年も前
 に気づいていたこととはいえ、実感としていわば”悟った”のは、先日だと
 いう意味です。
 
  美味しい食べ物を口に含んでいたものの、飲み込むまでには至らなかった
 のが飲み込んだとでもいえましょうか、これはもうおこがましくも
”悟った”
 という
言葉を用いるしか表現のしようがありません。それまでは、「解った
 つもり」でいても全然解っていなかった,といってもよいでしょう。”目か
 ら鱗”とでもいえましょうか、或は”コロンブスの卵”という表現をしてよ
 いのか、とにかくこれまで見えてなかったものが突然に見えてきたのであり
 ます。分かってしまえば「な〜〜んだ」と誰にも(もしかしたら幼児にも)
 納得できることだと思われます。(このことは、知行合一ではありませんが
 「知って行わざるは知らざるに同じ。」というのに通じるところがあるよう
 に思います。)



なお、以下に掲げるページのいくつかは
http://redant.fc2web.com/si-top-zx.htm←の再録みたいなものです。
但し大幅な文体の変更や改変をしています。


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