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(25) 感動体験


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大袈裟な表現ですが、先ず私の音楽遍歴から述べることにイタシマショウ。

当然ながら、幼児期からモノゴコロつくまでは
童謡、唱歌に惹かれておりました。
「村の鍛冶屋」「浜辺の歌」「月の砂漠」などが懐かしく思い出されます。
(時代は少し下るのですが”五木の子守唄”は涙なしには聴けませんでした。)

十歳前から14,5歳くらいまでは歌謡曲にシビレテおったものでありました。
三橋美智也の”哀愁列車”、春日八郎の”別れの一本杉”など
ローカル色豊かな曲がダイスキでございました。
中でも藤島桓夫の”お月さん今晩は”、三浦洸一の”踊子”には
別格といえるほど心酔しておったものであります。

次に興味の対象はマントバニー、パーシーフェイスなど、
イージリスニングオーケストラに移り、この2楽団のレコードは数多く買い集めました。
マントバニーのと呼ばれる美しいストリングス演奏には
音による夢の世界へ引き込まれたものでありました。

特記すべきは、パーシーフェイス演奏の”テネシーワルツ”でありましょう。
心を躍動させ高揚させてくれる素晴しいアレンジかつ演奏でありました。
(下手なクラシック名曲演奏よりよほど優れたものだと今でも思っております。)

上に列挙した曲は今聴いても感動すると思います。

そのころ買ったソノシートにロシア民謡集というのがあり、
楽団南十字星による、”ともしび” ”トロイカ” ”カチューシャ”の3曲には
感電したほど痺れておったものでござる。
クラシック以外では最も感動した演奏だったといえるかもしれません。
もしCDに復刻されればヒャクマンエン出しても手に入れたいと思うほどです。
(もっとも日本一の貧乏ゆえヒャクマンネン生きてもムリでしょうがネ。)

さていよいよ本筋のクラシックについて述べたいと思うわけでございますが、
それまでクラシックに対するイメージといえば、



バッハ? ベートーベン?
モーツァルト? シューベルト?

ジャトォーッ!


あんな息詰る 堅苦しいウットーシー
クラシックなんぞのどこがエエとユウンジャ!
あんなもんに惹かれるヤツラの
気が知れんワイ!


と、当時まではそういう感じでおったのでございます。
そんな私が一転クラシックにのめりこむようになった時期もきっかけも
定かではございませんが、たぶん中学生のオワリころ
同じ町内に住む同級生から借りた一枚のレコードだったでありましょう。
古いことですが曲と演奏者ははっきり憶えております。

それはクラシックの定番中の定番!
イゴール・マルケビッチ指揮 コンセール・ラムルー管弦楽団
a”運命”&”未完成”a
でありました。

クラシックなんぞテンデ興味がなかったので、
せっかく貸してくれたんだから,とはじめオギリで聴いておったものですが、
シンボーして繰り返し聴くうち少しずつ良さが分かってまいりました。
借りっぱなしにしていて何カ月か経って返してくれといわれた頃には
すっかりクラシックファンに変身しておったように記憶しております。

と申しても、いきなりベートーヴェンファンになったわけではございませんで、
クラシックオーケストラ演奏の良さがワカッタという程度でござんしたがね。

それから間なしに買ったクラシックの最初のレコードは
”アルルの女・第二組曲”のEPでありました。
”王様の行進”が目当てでしたがザンネンながらそれには含まれておらず、
コリャシッパイしたもんじゃと嘆いたものでしたが、
何度も聴くうち、”間奏曲”というのがたまらなく好きになってしまいました。
同組曲にあるあの有名な、”メヌエット”よりもダイスキになったものでござった

次に買ったのは、エルネスト・アンセルメ+スイスロマンド管弦楽団による
Waltzと題されたチャイコフスキーとドリーブのワルツを集めた25cmLPでしたが、
これも白鳥の湖・情景が入っておるとばかり勘違いして求めたものでありました。
デモ何が幸いするかわからないもので、これは後々まで 宝物 となりました。
どの曲もメルヘンチィックな雰囲気に溢れたサイコーにステキな演奏でしたが、
とりわけ”眠れる森の美女のワルツ”はタマラナクスキになり、
自作の”白雪姫”はそれに敢て一部似せて作ったのでございます。
(アンセルメがバレー音楽の神様とまで評価を得ているのは後で知りました。)





さてゴタブンにもれず、ワタクシのジンセーもそのころから坂道を転がり落ちだし、
いつの間にやらマックラヤミのマッタダナカに鎮座マシマシておりました。
いわゆるセーシュンのナヤミというヤツでございます。
そんなサナカに買った一枚のレコードが コレ なのでありました。

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以下は
ここ書いておりますことと殆ど同内容でありますが、
特に強調したきコトガラゆえ、一部書き直しのうえ
敢てここにも掲載いたす次第でございます。






熱情月光エグモント,第七第九

まだまだありますが、よくもまあたった一人でこれだけの感動作を
生み出せたもんじゃ!と驚愕しますが、ここでは

(上をクリックしてもらうと自演の第一楽章。)

第一楽章に絞って思うところを述べさせていただきますると──


これが世紀の名曲という世評にはマッタク同感であります。
しかし一方、
世紀の名曲への認識の仕方には
世評と大きなズレを感じておるのでございます。
というのは、これは本来
”世紀の名曲”(万人に愛される)と評されるべき
性質の音楽ではないと思っているからであります。

 
どういうことかと申しますと、



運命は人から幸福や平穏を奪い去り、

底知れぬ心の暗闇へ引きずり込む




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だと思うからであります。いいかえれば、

底知れぬ絶望の暗闇地獄に堕ちこんでいる者

でなければ本当の意味で感動できるはずがないと思うのござる。

 このことをもっと理解してもらうため二つのエピソードを紹介いたしましょう。
 まず同時代のゲーテにまつわる逸話であります。

 メンデルスゾーンが子供のころ
ゲーテおじさんに運命の第一楽章を
ピアノで聴かせたところ、ひどく感動した様子だったので
感想を求めると、なぜかうろたえて



怒気をこめて頭ごなしに否定し去ったそうです。

 私にはゲーテのこの時の心理が手に取るようによくわかる気がします。
ゲーテのような貴族的で洗練された優れて高貴かつ健全な
肯定的人生観
の持ち主には、運命のような音楽を受け入れてしまうと
”自己の全否定”
につながりかねないから上のような反応したのであります。

これは絶対間違いなし

とカクシンいたしておる次第。


もう一つは時代が少し下って


というまさに aそのものズバリa ベルリオーズの言葉であります。


運命
(特に第一楽章)はそういう音楽だと思っております。
だから私にはこの曲がこれほど人気があるということがほとんど信じ難い現象。
万人が絶望の人なんてことはあり得ませんからね。

上に述べてきたことは、もしかしたら他ならぬベートーヴェンご本人にも当てはまるのかも知れません。
というのは、ずっと以前何かの本で読んだことがあるのですが、
運命作曲後ある人がベートーヴェンに質問したらしいです。
「ご自身で最高傑作と思ってらっしゃる作品はやはり第五でございましょうね?」

するとベートーヴェンは言下に強く否定してこう言い放ったそうです。
「イイヤ、いいや、我が最高傑作は断じて(交響曲3番)英雄ナリ!
・・・なんだかとってもワカル気がイタします。





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さて突然のようですが、ここで前回紹介いたしたロシアのことわざ
再度とりあげることにいたします。







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こうするのにはふか〜い深いわけがござまして、
この言葉、すなわち 神のお姿
ズバリ 音楽に翻訳 したものを紹介いたしたく思うからであります。

それは運命・第二楽章のちょうど中間部に出てまいります
わずか2分足らずの変奏部分でありまして、そこだけを抜き出したものを

(上をクリックすれば女神の慟哭が聴こえます。)

と題し作っておりますれば、ぜひお聴き願いたいわけでございます。
詳しくはそこに書いております。

ここで前回書いておりましたことを思い出していただきたい。

世界中の宗教書を総て集め山と積んでも
この一言がなければ無にひとしい

これと殆ど同じ言い回しを以下に述べて
ワタクシの 感動体験 の結びとさせていただく次第でございます。

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ゴチュウイ
今やワタクシ、ロースイのせいでスッカリ”感受性がピンボケ”とナリ果てておりますれば、
上記ハツゲンはテットーテツビ
「かつてはそう感じたこともある。」
という具合にゴリカイ願いたい。



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追記

私の音楽体験を語るのに欠かせない一人の演奏家を忘れておりましたので、
以下簡単に述べてみたいと思います。




ナントマア信じがたいことに、その後ワタクシも人並みにヨメサンと子供にメグマレ
少しばかり平穏を取り戻せた頃、たまたま知ったのが
ネヴィル・マリナーという指揮者でございました。

マリナーはイギリスのアカデミー室内管弦楽団を率いて
数々のレコードを出しております。(大半がバロック)
そのどれもがイギリスらしい実にアカヌケし洗練された演奏です。
(他の諸々のことからもイギリスは文化面では世界一高級で上品ではないかと感じております。)

はじめて知ったのは、
来日公演のビバルディの四季がテレビ放映された時でありました。
それまで室内楽、バロックなどには全然興味なかったのですが、
その気品溢れる演奏にたちまち虜になり、
以後月に一枚くらいのペースで出されるレコードを
発売日が待ち切れない思いで買い漁ったものでありました。

特にブレンデルのピアノと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲集、
(中でも二十七番)は、それはもう最高中の


でありました。


ダソクながら言い添えますが、
私のデータ作りの際の表情付け──ワタクシらしからぬ難しいヨーゴを用いますと
フレージング、アーテュキレーション、アゴーギックなどは、
多分にマリナーのエイキョウを受けておるのではないか,
などとヒソカに思っておるのであります。








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おことわり

この”とっておきの話”もイヨイヨ種が尽きてまいりましたので
今回をもちまして一応打ち切りとさせていただこうと思うわけでございます。
また何か思いついたら書き足す所存でありますが、
その節は変わらぬご精読賜りますようお願いいたしまする。





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