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新シリイズ  安心立命への模索
死とは何か

1 エピクロスの言葉



 では、以下にその具体的意味を考えていきます。
 先ず思いつくのは、自分以外に存在するが自分には存在し
ないものとは、(まるで子供向けのなぞなぞのようですが)
それこそ
”死”ではないか?ということです。最近読んだあ
る物理学者の本によると、「この世の中で絶対確実に予言で
きることがある。それは、あなたが何時か必ず死ぬというこ
とである。」とありましたが、全くその通りで、二の句もで
てきません。ところが、不思議なことに先に挙げた私流の2
分法によると、必ずしもそうとは断じきれないのです。

      





 他人(例え親子兄弟、長年連れ添った妻でも)が亡くな
れば、その衝撃度はともかくとして、これはイヤでもその
死を認めざるを得ません。それこそ否が応でも永遠の離別
になてしまうわけです。

 ところが、いざその”死”が自分の元を訪れるとどうい
うことになるでしょう?・・・・・
 ここで


   
 

          が俄然問題になってくるわけです。

 ―以下に述べようとしておりますことはこちらのペー
に書いていることと重複しますがお断りしておきます。
(訳あって、このリンクは勿論のこと、これ以外のリンク先の文章も殆ど
 ふざけ切った書き方をしておりますが。)


 これはこちらにも詳しく触れていることですが、先ずは
よくご存知であろうギリシャの哲人エピクロスの甚だ
印象深い言葉をここで改めてご紹介しましょう。




 当然中の当然のことを言っているようですが、その隠さ
れた(ようにも見える 本当の意味を読み取るのはなかな
どうして難しいようです。(でなければ、これほどまでに”死の
 恐怖”というものが人々にこびりついているわけはないのですから。)
 要するに、エピクロスの本当に言いたいのは「自分から
見れば自己の死は存在しない。」ということに他なりませ
ん。

 自分から見た実相(自分の死は存在しない。)と他人か
ら見た実相(自分の死は存在する。)とが、かくもかけ離
れて正反対に見えてしまうとは! 何せ認識することが、
自己と他ではまるっきり異なった意味を持ってくる
(←のリ
 ンクにそのことについて詳述しています。)
のですから。これは何
も「見解の相違」とか「視点の違い」とか云って済ませる
問題ではありません。”同じ色”を、一方では白、他方で
は黒と云って譲らぬほどの極端な相違なのですから。

 ――ここで冒頭に挙げた私流の2分法がご理解いただけ
るかと思います。
他には厳然と存在するのに自分には存在
しない
とは、そういう意味で言ったのです。言い換えるな
らば、他人とあなた(その場合私は勿論他人になるわけで
す。)と言っても全く同じことです。


 この真意を理解し得たならば、もう半分くらいは安心立
命の境地に入ったも同然のような気もするのですが、それ
だけでは如何ともし難いものが残ってしまうようにも思わ
れてなりません。

 しかし思えば不思議極まる現象です。もし仮に一億人い
れば9千9百9十9万9千9百9十9人が他人になってし
まうわけで、その総ての人それぞれにそれが言えるわけで
す。つまり言い方を変えれば、
 

ことになります。――このことは一見論理的矛盾を孕んで
いるように見えます。ちょうどアキレスは亀に追いつけな
い,というゼノンの逆理と同じで、現にアキレスはいとも
たやすく亀を追い抜こすではないか,従って自分(万人)
に死は存在しない,という主張も現実を見れば軽く一蹴さ
れてしまうような空論である。という批判も当を得ている
ように見えます。なるほどそういう批判も当然で反論の余
地はなさそうに見えます。

 でもここですごすご引き下がってしまうようではこれ以
上論の展開は不可能になってしまいますので、ここは何と
してでも反撃開始したいところです。――ところで今ふと
思い至ったことがあります。それは科学の最先端・量子力
学の世界においては、ものごとの根本
(電子とか素粒子・
のリンク先にそのことについて詳しく述べています

のところでは、そもそも二律背反が成立しているらしい,
ということです。電子は原子核の周りを回っているという
ように教えられていますが、実のところはボヤ〜と広がっ
て存在しているとも表現可能のもののようです。つまり言
い換えれば、一つのものであって一つのものではない(敢
ていうなら無限個ともいえるらしい)という全く奇妙奇天
烈摩訶不思議なものというのが電子なるものの正体らしい
です。(一が万に等しいとは、何か悟りを開いた高僧の口
から出てきそうな言葉です
。)いずれにせよ私達の常識的
では到底受け
れられないことです。でもこのパソコ
ンはじめ、現代社会はその量子力学を根底において成り立
っているようなものですから、ここはイヤでも認めざるを
得ないのではないでしょうか。

 このことをもって二律背反と見える総てについてそうだ
と断定するわけにはいきませんが、エピクロスの言葉の二
律背反性はそういう事実をもって乗り越えるわけにはいか
ないものか,と苦し紛れに思おうとしているところです。
 ついでながら言いますと、私にはこの二律背反に明快な、誰もが納得いく回答を与えた者こそが
 宇宙の謎を解き得た第一号の栄誉を冠せられる気がしてなりません。今のところは誰も未だその
 冠を頭上に輝かせた者はいないように見えますが。


 二律背反のことはさておき、話を本題の安心立命へ戻し
ますが、
何もそういうエピクロス的(唯物的)見方だけが
我々を”安心立命”の境地へ誘ってくれるとは限らないと
いうことです。
少なくとも私の体験上ではそうでした。
それには何か宗教的な要素(私がこれまで頑なに拒み続け
てきた、否馬鹿にさえしてきた)が
ってこそのもの
だと思えてくるのです。その宗教的なものが如何
ること
を意味を意味するのかは今のところさっぱり見当もつきま
が。・・・この文を書き終える頃には一歩でも二歩で
”安心立命”の世界へ近づければいいなあ,と願ってい
る次第です。だからと云って
心頭を滅却すれば、火自ず
から涼し”
式の厳しい悟道が待ち構えているようでは、尻尾
を巻いて退散するよりありませんが。




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