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ワルターとカラヤン |
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ブルーノワルターとヘルベルトフォンカラヤンといえば、かっては世界の人気を二分した 大指揮者ですが、その風貌といい音楽解釈といいまるで天の対極に位置しているかのようで す。どこか悲愁をにじませ泥臭さも感じさせるワルター。気品ある顔立ちで颯爽と肩で風切 るカラヤン。それは演奏にそっくりそのままオソロシイほど正直にハネカエッテいると思う のは私一人ではないでしょう。 ここで一本の棒をイメージしてみましょう。左の端を作曲家の発想の原点としましょう。 右の端を完成された芸術としましょう。左端には作曲家の苦悩や歓喜がなまのままうず巻い ていて、右端にはもはやそういう作曲家のドロドロした情念を離れ、ピカピカに磨きあげら れた芸術作品が眩く光彩を放っているとするのです。 世にあまたいる指揮者たちは皆その両極の間のどこかにおります。(どこに位置しようと 名指揮者は名指揮者。)しかしワルターとカラヤンは見事なまでにその両極に位置している ように思えます。ワルターは左端、カラヤンは右端であるのは言を待たず。 ですから同じ曲でも二人の演奏には物凄い大きな開きがあります。二人の比較にはベート ーヴェンの交響曲がうってつけです。なぜなら二人の違いが最も顕著なのがソレだからです。 まず「運命」を比較してみましょう。 ―その前にちょっとヒトコト― もしもこの世からレコードを一枚だけ残して破棄せねばならないという事態に至り、私に その選択権権が与えられたとすれば、躊躇なくワルター指揮コロンビア交響楽団の「運命」 を選びます。 ワルターほどベートーヴェンの「精神の原点」に立ち返り、運命という世にも恐ろしい音 これは必然のなりゆきだと思います。つまりワルターは「棒」の左端、つまり作曲者の心 もし「究極の二枚目」が許されれば私はカラヤンの第七番を選ぶつもりです。(でも未完成も選び ことのついでに「第九」も比較してみましょう。第三楽章を別にすると、一言でいえばカ 話が本線からそれるのですが、ここで少し私の大好きな指揮者ネビル・マリナーについて |
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おわり |
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補記 上の文を読んだクラシック音楽に大変造詣の深いあるお方から、何箇所か”事実に反する”とい う指摘を頂戴しました。例えば、ワルターとカラヤンが同時代に活躍したとは言えない,とか、 カラヤンの出生地がドイツでない故、ゲーテ→ニーチェ云々は間違いだとか、カラヤンの第五 を"ナンニモナシのスッカラカン"などと貶すのはオーバーすぎる,だとか。・・・ 実際はそのとおりなのでありましょうが、大筋では正しいと言えなくもないのではないかと思わ れますので、訂正は敢てしておりません。 |
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