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あ | (24) 感動体験 3 | あ |
○ | ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ 広く人をして感動さしめる力をもったものは何といっても芸術でありましょう。 私は少年期には文学者、それも詩人に憧れておったものですが、 イカンセンその素養をマッタクスコシモゼンゼンカイモク持ち合わせておらず、 そのせいか小説などあまり読まないものですから、 文学作品に感動を覚えた経験は多くはございません。 星の数ほどあるに違いない感動作を知らないままジンセーを終えるのは ヒジョーニもったいないことではありますが まあ今となってはこれもセンカタナキことと諦めております。 そんな中で一つだけ挙げるとすれば、 ドストエフスキーの「死の家の記録」でありましょう。 ムカシ昔に読んだ本なので細部はおおかた忘れてしまいましたが、 その最後の数行だけは未だに鮮烈に印象に残っております。 それを述べる前にこの小説全体から受けた印象から申しますと、 ドストエフスキーという作家の恐るべき人間観察眼という点に圧倒された, ということであります。 まるで、人の心を透視するレントゲンの目を持っているかのようで、 もし彼のような人間が側にいて自分を観察されたら、 ゼッタイ覗かれたくない 心のすとりっぷを晒す ことになりそうだと、想像するだけでなんだか |
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○ | ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ なったものでございました。 ”死の家”とはシベリアの流刑地、つまり監獄のことでありまして、 作者自身の抑留体験をもとに書かれたということでありますが、 殺人犯など様々な悪漢どもの行動、心理描写が 病的とさえいえる執拗さで延々と語られ、もう辟易しかけたころ ようやく十年の刑期を終え晴れて出所することになった主人公の独白が その最後の数行であります。 さようなら、さようなら。素晴しき人々よ。 君達ほど魅力的な人間集団は この地上どこにもあり得ないだろう・・・云々 ※この言葉がどれほどの重みを持つかは本を読破するしかないのは勿論です。 ※残念ながら手元に本が見当たらず全く正確ではありません。 前話で紹介した”世界残酷物語”のヤコペッティ監督は、 もしかして”死の家の記録”を読み上の言葉が記憶に残っていて、 それにヒントを得てあの鮮やかなラストを入れたのでは? と思えるほど私の受けた感動には似通ったものがありました。 (作品に接したのは小説のほうが先でしたがね。) 次にとりあげるのは、トルストイのあの超大作、戦争と平和であります。 といっても全編読破したわけではございませんで、 たぶん3分の1くらい読み進めたところでアエナク挫折いたしました。 でありますからして、その内容について云々することはできません。 ただ読んだ中で、今もって私が”座右の銘”にしている
言葉をここにご紹介しようと思うわけでございます。 それは、小説の中で何気なく交わされている会話中 登場人物の一人が引用していた”ロシアのことわざ”であります。 (もしかして、ことわざではなく誰か大聖人の言葉かもしれませんが、未確認) ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ |
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あ | あ | |
あ |
○ | ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ ワタクシメは幸か不幸かコチンコチンの無神論者でありますが、 もし神なるものが存在するとするならばまさにそういう存在でありましょう。 まるで、慈悲、理解者の極地におわしますお釈迦様 の口から発せられたかのような至言でありますが、 そうではあらずして、”詠み人知らず”のことわざであるところが 不可解といえば不可解、驚きといえばオドロキであります。 キリストの言葉に、
という名言がありますが、それに倣っていえば、
とさえ云いたいくらいであります。
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もし”感動”という意味を、哀歓に限らず受けた心の振幅度で捉えるとすれば、 スペインのシュールレアリスト 若い頃京都で”ダリ展”が開かれたのを観にいったのですが、 とにかくそれはドエライ衝撃でありました。 |
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